小説・尾崎豊

1.

 俺がこの世に残した最後の言葉は「……勝てるかな」だった。何に勝とうとしていたのか。何と戦っていたのか。自分でもよくわからない。頭は朦朧としていたし、苦しくて七転八倒していた。兄貴はあぐらをかいた脚に俺の頭をのせ、励ましつづけてくれた。

 兄貴は俺が酒に苦しんでいたと思ったらしい。「もう酒は抜けるぞ。もうすぐだ。がんばれよ! 勝てるぞ! 気合いだ!」と言った。俺は、自分がなんでこんなに苦しいのかわからなかった。いつも酒に酔ったときとは違う苦しさだった。ただ、俺も、酒でこうなったと思っていた。酒が抜ければらくになると思っていた。それで、兄貴が「勝てるぞ!」と言った言葉に反応して「……勝てるかな」と返したんだろう。そうだと思う。

 俺が死んでから、親父は俺についての本を単著で9冊も書いた。ちょっと書きすぎじゃないかと思ったが、母親も死んだばかりだし、寂しかったのだろう。親父は文章を書くのが好きだ。短歌をやっていたし、自分の日記を書く他に、俺や兄貴の生育日記を長年にわたってつけていた。だから俺について書くネタは豊富にあった。

 俺はこれから俺自身のことを話してみたい。でも子供のころのことは覚えていないし、ご先祖様のことはさっぱりだ。そこで親父の書いたものをちょっとアンチョコに使うこともある。許してくれよな。

 じゃあ、まずは、俺のルーツである尾崎家のファミリーヒストリーから話してみよう。あ、ちょっと待ってくれよ。ふふふふ。おかしいな。なぜって、死んじまった俺が、俺が生まれてくる前のことをしゃべろうってんだからな。俺がどこにもいないじゃないか。人生ってのは、生まれる前と死んだあとの、二つの永遠のあいだに挟まれた小さな点にすぎないんだな。あ、今、俺うまいこと言っただろ。何? どこかで聞いたことがあるって? こまかいこと気にすんなって。

 どこからはじめようかな。そうだ、「坂の下に見えたあの街に」っていう俺の歌、知ってるでしょう。あれに親のことが出てくる。俺は私小説的な歌を書くって思われてるけど、親のことを歌にするのは珍しいんだ。あの歌は、俺がプロの歌手になるってきめて、家を出ていくときの心境を歌にしたものだよ。ま、そんなこと説明しなくても知ってるだろうけどさ。歌詞の一番はおふくろ、二番は親父との関係を歌っている。

〈俺〉がアルバイトから帰ると、親父はストーブをつけてくれる。そして十九の〈俺〉に昔の話をするんだ。親父はどういう〈昔話〉をしたのか。それは書いてない。でも〈俺〉の行動から推測できるでしょう。〈坂の下のあの街の中で 必死に探し続けてた物 あの日の親父と同じ様にね〉と書いているからね。〈俺〉は無意識のうちに、親父の若いころをなぞるような生き方をしていたんだ。〈家庭(いえ)を飛び出してきたのは それより上目指してたから〉って言ってるでしょう。「あの日の親父=昔話の中の親父」も、〈俺〉のように上を目指して家を飛び出したんだよ。親父は、若いときに自分の可能性を信じて田舎から鞄ひとつで東京に出てきたんだぜ。無鉄砲なことをするよな。

 親父が田舎から出てきたように、〈俺〉も〈坂の下のあの街〉から出てゆこうとしている。〈やがて俺も家族を持ち 同じ様に築きあげるだろう〉ってあるだろ。これからは〈俺〉が中心になって新しい家族をつくるんだ。そしてそこで育った子どもたちはこの〈俺〉のように、やがて〈俺〉を乗り超えて家を出てゆくことになるだろうね。そのときの〈俺〉はそう思っていた。ここは何を言っているかというと「反復」ってことなんだ。〈俺〉は父親の生き方を繰り返す。〈俺〉の子どももまた〈俺〉の生き方を繰り返すことになる。家を飛び出すということから親子の断絶に思えてしまうけどそうじゃなくて、子は親の生き方を反復するものなんだ。まぁ、この歌を書いたときはそこまで考えていなかったけど、今読み直すとそういうことを無意識に言ってるんだと思う。

 これから俺の家のことをちょっと話してみるよ。「家」なんて古くさいと思うかもしれない。実際、核家族化した今は「家」の寿命は短いよね。親が家を建てて子供と一緒に暮らす。でも子供は大きくなるとその家には住まないことが多いだろ。生まれ育った家を出て自分で新しい家を建てる。親が死んでしまえば、その家は終わり。だから家はせいぜい50年くらいの寿命かな。建物としての家と制度としての「家」はもちろん違う。でも制度としての「家」を支えているのは建物としての家だし、建物があるから人々はそこで一緒に暮らすことになる。親父が生まれた岐阜の家は何代も続いていた。その家はまだ続くだろう。親父は7人も兄弟がいたからね。誰かが継いでいくものさ。でも、親父が東京に出てきて作った家は、もう終わりかけている。おふくろは早くに亡くなったし、親父は結構な年だ。兄貴は別のところで暮らしているし、俺は・・・もういない。

 俺の親父、尾崎健一は1926年12月6日に愛知県半田市で生まれた。1926年って知ってるかい。大正時代の最後の年だぜ。昭和元年でもある。大正15年12月25日に大正天皇が亡くなって、同じ日に昭和天皇が即位した。あれ? ってことは12月25日は大正でもあるし昭和でもあるってことか。まあ、いいや。どっちみち、昭和元年は7日しかなかったんだ。で、うちの親父は、大正15年12月6日生まれだから、あと19日で大正が終わりってときにオギャーッって生まれたんだ。たった数日のことだけど、大正生まれと昭和生まれじゃ、語感が違うよな。今なら、昭和生まれは古くてバカにされる感じかな。そんなことを言っていても、来年から平成じゃなくなるから、平成生まれの奴らもじきにバカにされることになるのかな。

 尾崎家の話だったね。うちの家は先祖代々、飛騨高山で農業を営んでいた。でも、俺のじいさんの代で一旦離農し、愛知県半田市に出てきた。じいさんは飛騨の大八賀村(おおはちがむら)塩屋(しおや)の農家の長男。その妻、つまり俺のばあちゃんは隣の丹生川村(にゅうかわむら)の出身だった。両村とも、現在は高山市に編入されている。

 高山っていうのは山の中にある町なんだけど、観光で来たことがある人も多いんじゃないかな。江戸時代は幕府の直轄領で、今も古い町並が多く保存されている。飛騨地方の一部で、森林の面積が多く、木材・木工業が盛んだ。俺も何度か高山に来たことがある。俺がうんと小さいとき、おふくろが病気で入院したんだけど、そのとき何ヶ月も高山のばあちゃんのところに預けられていたことがあった。親父は、幼いとき母親から引き離されていた経験が、俺が孤独を強く感じる原因になったんじゃないかと言うけど、どうかな。自分でもどうしてかよくわからないよ。

 親父の兄弟に郷土史の編集委員をしたりした人がいるせいか、親父も歴史好きなんだ。尾崎の姓は、親父によれば、戦国時代に丹生川村に尾崎城を築いた塩屋秋貞(しおやあきさだ)に関係しているっていう。でも不思議なのは、大八賀村塩屋の部落には昔から尾崎姓は自分の家一軒しかなかったんだよね。

 それで、じいさんのことなんだけど、この人は日露戦争に出征し、乃木将軍のもとに一兵卒として二百三高地の前線で戦った。えー、そうなんだあの二百三高地でね、って俺はこの話を聞いたときびっくりした。

(つづく)

2.

 俺のじいさんは日露戦争に兵隊に出て二百三高地で戦ったっていう話は前回した。この戦いは戦死者が多かったんだけど、じいさんは足を負傷したから内地の病院に後送されたんだ。もし二百三高地で死んでいたら、俺は生まれていなかった。あたりまえだけど。じいさんの頬をかすめてとんでいった銃弾が、あと数センチずれていたらと思うとぞっとするよ。人の生死は偶然なんだなと思ったよ。

 復員したじいさんは先祖伝来の地である高山で農業をしていた。だけど結婚してから、農家をやめて愛知県半田市にあった東洋紡績の知多工場で働いたんだ。一家で引っ越して社宅に住んだ。東洋紡績は綿糸・綿布の製造と販売をする当時の半田の経済を支える最大の会社だった。俺の親父、健一はその半田市で生まれたのさ。半田っていうのは名古屋の下のほうにクワガタの角のように2本突き出した半島のひとつ、知多半島のほうのなかほどにある。じいさんはしばらくそこで働いて、昭和9年に高山に帰った。高山に帰って再び農業をやることになった。親父も小学校3年の春から高山の小学校に転校した。このあたりは俺と似ているよね。俺も練馬の都営住宅に住んで近くの小学校に通っていたんだけど、小学5年の夏に埼玉の朝霞に引っ越して、そこの小学校に転校することになったんだから。

 ところで親父のことを書いた wikipedia にはこうあって笑ったよ。「現在の愛知県半田市に生れる(岐阜県生まれとなっている著書もあるが、両親が岐阜県出身である)。」確かに生まれたのは半田だけど、本人は飛騨高山の人間を自称していたからね。よく冗談で言うじゃない。

「おまえ、生まれたのどこ?」

「病院」

なんてね。生まれを聞くのはたんに出産の場所って意味じゃない。生まれた土地がその人の人格に影響していなければ、生まれを聞いても意味はないよ。親父は8歳ころまで半田にいたので半田の影響も少なくないと思うけど、自分は飛騨高山の人間だと言っていたからね。どっちに重心を置いていたかは明らかだ。ただ、俺が大きくなって俺の運転で両親を連れて半田にドライブに行ったことがあった。親父もどこか懐かしいものはあったんだとは思う。実はおふくろも若い頃、偶然にも半田の近くで何年か働いていたことがあったんだよ。

 親父は健一っていう名前だけど長男じゃない。7人兄弟の末っ子だった。兄の一人は多才な人で、タイプライター商会を営んだり、地元の小説同人誌に入ったり、郷土史の編集委員をしたりしていたんだ。親父がものを書くのが好きなのは、この人の影響かなって気がする。

 ここで俺のおふくろのことも話しておく。俺のおふくろは絹枝っていうんだけど、昭和5年10月24日に飛騨の丹生川村で生まれたんだ。尾崎家が先祖代々暮らしてきた大八賀村の隣村だ。ここは親父の母親の出身地でもある。同じ村から親子2代続けて嫁さんをもらったことになる。

 おふくろの家は丹生川村で大きな材木商を営んでいた。飛騨だから多くの人が林業関係の仕事をしている。でも、終戦前、商売に失敗して工場を人に譲り、おふくろの家は高山市内に出てきた。戦後何年かのうちに両親が亡くなって、おふくろは、ま、このときはまだうら若き乙女だったんだけどね、昭和27年に、愛知県にある国立療養所大府荘で事務員として働きだした。昭和32年10月に親父と結婚するまで、ここで働いていたんだ。

 親父とおふくろとの馴れ初めはよく知らない。おふくろと親父の母親が同郷だったから、そっち関係の紹介だっかもしれない。親父が幼少時代を過ごした半田市は知多半島のなかほど、おふくろが勤めていた大府市はその知多半島のつけ根の部分にあり近かったから、話も合ったんじゃないかな。そういうふうに愛知のほうに出ていった時期もあったけど、俺の両親は先祖代々飛騨に住み続けてきた人たちといっていいと思う。俺の本籍も結婚するまで高山市にあったんだよ。

 おふくろの話を続けよう。親父は向学心があっていろんな資格の勉強をしたり邦楽の練習をしたりと、自分のやりたいことをやるタイプの人だったんだけど、一方、おふくろは社交的なタイプの人だった。20歳ころは地方の演劇グループに所属していたし、晩年は民謡で県大会入賞するほど達者だった。ただ、健康に恵まれず、結婚後半年くらいで髄膜炎にかかって、5回ほど入退院を繰り返したんだ。俺が生まれて一年半ほどたった昭和42年にも髄膜炎を発症して入院した。このときはかなり重篤で、完全に意識を失い昏睡状態になってしまったんだ。死は目前であるから身内を呼ぶように医者に言われたらしい。死の淵をさまよったんだけど、点滴薬により2,3日すると快復してきた。親父は、その奇跡的な蘇生を目にして、仏教に深く帰依したらしいよ。おふくろが闘病していた三か月ほどの間、俺たちは、兄貴は名古屋にいる母の姉のところへ、俺は高山にいる祖父母のところに預けられたんだ。

(つづく)

3.

 前にも話したけど、俺の親父が生まれたのは大正15年、つまり昭和元年だから、昭和の年から1を引いたのが親父の満年齢になる。わかりやすいでしょ。

 親父は、飛騨高山の農業学校に通っていた。戦時中でのんびり勉強してる時間はなかったのかな、昭和18年12月に、3か月繰り上げて卒業し、翌年1月から営林署に勤務した。翌年、日本は戦争に負けた。親父の親父、つまり俺のじいさんは、敗戦直前の昭和20年6月に61歳で癌で亡くなっている。このとき親父はまだ18歳だった。じいさんは厳しい人だったらしいから、そのじいさんが亡くなったことと、敗戦という社会の価値観が180度ひっくりかえる経験とを同時にしたんだね。18歳というのは、ものごとの道理がかなり理解できるようになる年齢で、そのとき敗戦を経験したのは大きい。もっと小さくて小学校低学年くらいだと、よくわからないまま敗戦を迎えたんだろうけど、そうじゃない。8月15日前後を経験した年齢がその後の価値観の形成に与えた影響は大きいらしいよ。親父は自分でも、「リベラルであることを重視するようになった」と言っている。自分の考えを他人に押し付けたり、子どもを叱って従わせるようなことはしたくなかったんだって。たしかに、親父は俺にとって空手の先生でもあって怖い人だったんだけど、あんまり親父に怒られた記憶っていうのはないんだよな。数回、殴られたことはあったけど。中学生なのに酒飲んでぐでんぐでんに酔っ払ったときとかね。まぁ、それはこっちも悪いから仕方ないけどさ。俺はよく「自由、自由」って言うでしょ。実は親父も、自由を求める俺に先んじて自由を重視していたってことなんだよね。

 18歳の親父が勤務した営林署の職場は、自宅のある高山から40キロ離れた山の中にあった。通える距離じゃないから、寮か何かに入っていたんじゃないかな。その山の中で、植林や伐採の仕事をやって4年ほど過ごしたんだ。でもその営林署が一生の職場だと思ったわけじゃなかった。仕事は嫌いじゃなかったんだけど、もっと勉強をしたくなって営林署をやめちゃったんだ。親戚が営む材木屋で働きながら昭和27年4月に高山の夜間高校に入学した。新制大学に行くため、不足している単位をとろうとしたんだよ。すごい勉強家だよね。その後、昭和28年ころ上京した。山仕事の他に、自分には何かもっと他の才能があるんじゃないか、自分を試してみたい、と思ったらしい。営林署の退職金と貯金をかきあつめて、といってもわずかな金額なんだけど、東京に向かった。

 何か伝(つて)があって上京したわけではないみたい。就職先は上京する車中で偶然隣り合わせた人の紹介によって決めたってさ。無鉄砲だよね。でも、俺に似てるところがある。逆か。俺が親父に似てるのか。俺が高校を中退したとき、おふくろはずいぶん嘆き悲しんで動転したんだけど、親父は、ああそう、という感じだった。自分も若いときにカバンひとつで上京したという経験があったから、どうにかなるだろうと思ったんだね。

 親父が上京した頃の日本っていうのは、まだ戦争から完全には立ち直っていなかった。サンフランシスコ講和条約が発効されて主権を回復したばかりだったし、隣国では米ソの代理戦争である朝鮮戦争がまだ続いていたんだ。戦争はまだ身近にあって、世の中は混沌としていた。そのうち、高度成長が始まって都市部の人手が足りなくなると、農村から都会へ若者が大量に流入することになるんだけど、最初の集団就職列車が走るのは、親父が上京してからまだ2年ほど先だよ。

 東京に出てきて親父は何をやっていたのか。親父には、一級建築士になりたいという漠然とした思いがあった。高山にいたとき建築士を見て憧れていたんだ。カッコいい響きがあるよね、建築士って。だけど、現実の東京での生活は、そう甘くない。都税事務所に非常勤で勤めたりとか、職をいくつか転々とした。働きながら昭和28年から明治大学の夜間部(文学部新聞学科)に通った。一級建築士の夢は薄れて、とにかく学校へ行こう、授業料の安い大学へ行こうと思い、明治の夜間にしたようだよ。

 そうこうしているうちに、ようやく定職を見つけた。昭和29年に立川の自衛隊に入隊し、事務官になったんだ。陸上自衛隊は朝鮮戦争時にできた警察予備隊が昭和27年に保安隊に改組され、昭和29年7月1日の自衛隊法施行によりできたばかりだった。このへんは授業で習っただろ。歴史の一コマだよ。時代の流れの中で生きてきた人だなって思う。当時の記録映画を見たことがあるけど、失業率が高くて、できたばかりの自衛隊は人気で、入るのに倍率が高かったって言ってたな。親父は自衛隊勤務のかたわら夜間大学にも通い、32歳で卒業した。自衛隊には、昭和61年の暮れに定年退職するまで勤めあげたんだ。

 俺は都会の街をテーマにした歌をよく作った。東京生まれの東京育ちなんだけど、俺の親は田舎から出てきて苦労してたんだ。俺は出郷2世ってことになる。1世と2世じゃ、ものの感じ方が随分と違ってくるものなんだな。

 親父が上京したころ、おふくろは愛知県の療養所で仕事を始めたばかりだった。遠く離れていたところにいた二人がどうして知り合ったのかはよくわからないけど、昭和32年に結婚して、池袋のアパートで新婚生活を始めることになる。親父が上京してから結婚するまで4-5年経っていた。

 二人は、昭和35年に町田市の都営住宅に引っ越した。その年に長男の康(俺の兄貴だね)が生まれ、5年後の昭和40年11月29日に、世田谷区池尻にある自衛隊中央病院で俺が生まれた。父母と男の子2人という4人の核家族で俺は育った。

 俺は、親父が39歳になる直前の子どもだった。当時としてはちょっと遅いほうじゃないかな。実は、俺もあとで知ったことなんだけど、親父は、おふくろとは再婚で、前の奥さんとのあいだに男の子が一人いたんだ。親父は上京前の昭和24年2月に最初の結婚をして、同じ年に息子が生まれていた。俺の異母兄にあたる人で、年齢は16歳離れている。俺は一度も会ったことがない。この人はどうもずっと岐阜県に住んでいたみたいで、駐在所勤務の警察官だった。この人も、自分が尾崎豊の兄だっていうことは、俺が死んで大騒ぎされるまで知らなかったみたいだし、俺の親父とも一度会っただけなんだって。

 親父が最初の奥さんと離婚した理由は、東京へ行って勉強したかったからなんだって。前の奥さんも一緒に連れて行きたかったけど、親父は養子に入った身で、奥さんは家を継がなければならなかったし、両親も家にいるので置いていけなかったみたいだ。数年後に親父は上京する。離婚してまで上京って、どんだけ勉強が好きなんだよ、って思うけど、婿養子先では勉強する余裕もなく肩身が狭かったのかもしれないね。戦後で、まだ社会のシステムが固まっていなくて、明治以来の立身出世の気概が再び高まっていた時代だったのかも。親父も本をいっぱい書いたのに、このあたりのことは書いてない。詳しく書きたくなかったんだな。

 親父は、自分が再婚であることや腹違いの兄がいることを、俺たちには話さなかった。知ったのはかなり後になってからだ。「何となく言い出しかねて黙っていた」らしい。親父は律儀な人で、万が一のときのために、息子たちにあてて財産の分割について記した遺言を毎年書いていたんだ。うちにそんな心配するほど財産があったのかなって思うけど。その遺言書の古いものは捨てていたんだけど、それをゴミ箱から俺が見つけて、そこに書かれていた知らない名前を不審に思って親父に、「これ誰だよ」って問い質したら、「実はな」って打ち明けられたんだ。俺は「えっ」ってびっくりしたけど、大人になっていたから取り乱しはしなかった。「そうか、そうだったのか」と思ったね。いろんなことがつながった気もした。自分も結婚して、生活することの難しさを理解していたからね。俺が知ったのが中高生くらいだったら、かなり深刻に受けとめたんだと思う。父親の隠された秘密、自分が知らない血を分けた兄弟の存在というのはロマンチックな想像をかきたてるからね。

 さてと、俺の話も、ようやく俺が生まれたっていうところまでたどりついたよね。俺の「豊」っていう名前は、親父が高山の農業学校時代に尊敬していた先生の名前からとったものなんだってさ。20年以上前に教わった先生の名前を我が子につけるというのだから、親父も受けた恩を大切にする律儀な人なんだね。

 俺が生まれた当時の尾崎家の様子を話しておこう。俺が生まれる前年に、一家は町田の都営住宅から練馬の都営住宅に引っ越していた。この練馬の都営住宅は終戦直後に建てられたもので老朽化していて、不衛生でネズミがよくでたんだ。周辺にはまだ畑がたくさん残っていた。間取りは六畳二間と台所と汲み取りトイレ、それと親父が日曜大工で作った風呂場。子どもが二人になって手狭になったので、庭に四畳半の子供部屋を増築してくれた。俺が小学5年のとき埼玉県朝霞市に転居するんだけど、それまでここで暮らすことになる。

 ああ、そうそう。俺が死んだ日に、歩いて自分のマンションまで帰る途中に、民家の庭先に入り込んだんだ。のちに「尾崎ハウス」って呼ばれるところだよ。どうしてその家なのかっていうと、表からみたところが練馬の住宅に感じが似ていたからだと思う。頭が朦朧としていたからよく覚えてないけど、ついフラフラと誘われるように入っていったのは、懐かしさやほっとするものを感じたからだろうな。

 朝霞に引っ越してからも、俺は練馬に戻りたいって散々駄々をこねて、中学校は越境入学して練馬に戻れたんだ。友達や遊ぶ場所は練馬が中心だからね。練馬は俺の拠点なんだ。どうして俺はこんなに練馬に引かれるんだろう。それは幼いころから暮らしていた街で愛着があるっていうこともあるけど、実は、俺だけでなく、東京での尾崎家の歴史は、そのあたりを中心に成り立っていたんだ。ターミナル駅でいうと池袋駅ね。まず、親父が単身上京して住んだアパートは豊島区池袋東口にあった。結婚して町田市の都営住宅に入居。のち、練馬の都営住宅に移った。朝霞から都心に出るのは東武東上線で池袋駅。俺が新婚生活を始めたのが板橋区のマンション。一時期の町田暮らしを除けば、尾崎家は、池袋を中心にした生活をしていたんだ。高校は青学で歌にも渋谷をよく読み込んだから、俺には渋谷のイメージがあるって思われているけど、実は心の故郷はおしゃれな渋谷より、猥雑で庶民的な池袋のほうなんだよね。

 俺の家はとても裕福とは言えなかった。都営住宅に住んでいたのもそのせいさ。親父もよく「給料が低い!」って怒ってたな。おふくろはあちこちパートをしていたよ。ガリ版の内職、店の経理、デパートの販売員。保険の外交員では金杯をもらった。小さな印刷製本会社や水道工事会社の役員。こういった経験は、後に俺が会社アイソトープを作ったときには経理の仕事を手伝ってもらうのに役立ったけどね。まぁ、家計は裕福ではなかったけど、貧困家庭というわけでもなかった。俺が小学校に通うようになる頃から徐々に上向きになって、朝霞に家を持った。でも、そのことがまた家計を圧迫することになった。俺は高校生のときいくつもバイトをした。有名高校だったんで金持ちの友達がいたけど、彼らとつきあうにはそれなりの金が必要になったし、音楽をやるのにも金がかかる。親にせびってだしてもらうわけにはいかない。朝の四時に起きて新聞配達のアルバイトをしたのはきつかったな。高校を退学して音楽活動に専念するようになっても、洋服の持ち合わせが少なかったので、翌日着る服をすぐ洗濯しなくてはならなかった。帰りが深夜遅くになっても自分で洗濯機をまわしては、翌朝、生乾きのジーパンやシャツをおふくろがアイロンがけしてくれたんだ。

 でも、早くから様々なアルバイトをして自分で金を稼いだ経験は、世の中を見る目を養うことにもなった。俺が高校生のとき作った歌は年齢の割に大人びていると言われたけど、勉強ばかりしている同年代のやつらよりも世間を見知っていたとは思うよ。何より、バイトの経験は、自立して生きていくことについての自信になったね。

 練馬と俺の歌との関連も話しておこう。練馬の都営住宅の近くには、俺が子どものころは、広大な敷地に在日米軍の家族宿舎(グラントハイツ)が建っていたんだ。米軍に接収されていた土地は徐々に返還されて、昭和48年に全部返還された。自転車で15分ほどのところで、官舎群は空き家同然になっていて人影はなかったから、子どもたちの格好の遊び場になっていた。広い無人の基地内を守衛の目を盗んで自転車でかけまわったのは面白かったよ。

 この跡地は「米軍キャンプ」という歌にした。〈米軍キャンプ跡の崩れかけた工場〉っていうのは廃墟になったグラントハイツをイメージしてる。この歌は、俺が昔つきあっていた女性のことを歌ったものであるんだ。その女性は病気になって一人で電車に乗ったり街を歩いたりすることができなくなった。この歌に出てくる女性って、〈さまよってる〉とか〈力なく伸ばした手で抱きつく〉とか、〈米軍キャンプ跡の崩れかけた工場〉とある廃墟のように生気がない。かつては盛んだったものが影のような存在になっているんだ。

(つづく)