二〇一六年のノーベル文学賞を受賞したのは、ミュージシャンのボブ・ディランだった。授与理由は、「偉大な米国の歌の伝統に新たな詩的表現を作り出した」というもの。歌詞の文学性が評価されたことになる。受賞者の名前を読み上げた事務局長は、「彼の詩は歌われるだけでなく、読まれるべきものだ」と言う。歌における歌詞と曲の関係において、歌詞の独立性を強く後押しするものだ。曲から切り離された歌詞を論じることにも意味があると認められた、と私は受け取った。それは本書の主題と直結している。

「推論というものは、理屈に合っていても真実でないことがあるのさ(略)たとえば十語ないし十二語からなる一つの文章を作ってみたまえ(略)そうしたら、きみがその文章を考えたときにはまったく思いもかけなかった一連の論理的な推論を引きだしてお目にかけよう」(ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」永井淳訳)

「君は全く関係がない枝葉の点にばかりこだわっているが、これが新しい捜査方法なのかね。家内を殺した犯人を逮捕してくれ。その他の問題は無関係だ。小さな穴が気になるというんだろ。だが小さな穴に気を取られなければ大きな手がかりがつかめるんじゃないのか」(「殺人処方箋」『刑事コロンボ』)

中学生でもわかる尾崎豊・入門

 やあ。オレ、西一(にしはじめ)。某有名マンガにも同じ名前のキャラが出てくるけど同姓同名の別人だよ。

 もうじき出版される本、『盗んだバイクと壊れたガラス 尾崎豊の歌詞論』(見崎鉄著、アルファベータブックス)にもオレは出てくる。ただ、この本は、いわば中・上級者向けなんで、初心者向けに尾崎論をしゃべってくれって頼まれた。それを一発やってみたい。

 尾崎豊ってさ、その名前を口にしただけで、もう、みんな口元がユルむんだよな。「ああ、あの人ね」っていう。「またか」っていう感じもある。実際そうなんだよ。亡くなって四半世紀もたつのに、いまだにメディアにちょくちょく名前が出てくるからな。まだ生きて活動してんのかって思うくらいCDやビデオの新編集されたものが出てくる。最近は息子もぼちぼち活動してるらしいよ。

 平成もあと1年で終わる。で、平成を振り返ろうって企画があちこちにある。その中で平成の怪事件というのがあって、常連になっているのが尾崎豊の怪死。尾崎は平成4年に死んでいる。オレはそのとき小学生だったけど、テレビで毎日、その事件の放送をしていたのを覚えている。その後も遺族がもめていたんで、結構息の長い話題だった。

 同時に尾崎本っていうのもたくさん出た。尾崎の親父さんとかマネージャーとかいろんな人が書いていた。一つの話題であれだけ本が集中的に出るのって、尾崎が先鞭をつけたんじゃないかな。この後、ゴジラやサザエさんを端緒にした「研究本」がブームになって、中でもエヴァンゲリオンはすごかったけど、そういうものって尾崎が最初だっていう気がする。違ってたらゴメン。

 今度の『盗んだバイクと壊れたガラス』は数多(あまた)ある尾崎本とは一線を画しているよ。尾崎本というより、歌詞について書いた本だね。歌詞を書いたのが尾崎という人だったというだけでね。

 歌詞なんてみんな馬鹿にしてるだろ。みんな歌を聞くときに歌詞なんて聞いてないよ、ってよく言う。歌は歌詞より曲のほうが大事だって思ってる。でも、その素(す)ン晴(ば)らしい曲にしょうもない歌詞がついていたらどうよ。美人だけど性格の悪い女、みたいな感じかな。そんなのとつきあいたいかい? 容姿は平凡でも気立てのいい子が好きだって人は多いよ。

 歌詞を馬鹿にするんなら、歌から意味のある言葉を剥ぎ取って、スキャットだけにすればいい。「あーあーあああああーあ」(北の国から)とか、「ランランララランランラ」(ナウシカ・レクイエム)とか、「ルールールルルー」(夜明けのスキャット)みたいなのだけにすればいいよ。いい曲だけど、飽きるのも早いよね。何遍も聞いていると、あー意味がほしいと思う。意味のはっきりしない宙吊りの状態に耐えられないんだよ。もっと言えば、スキャットすらやめてインストルメンタルだけにすればいい。昔のテレビだけど「Gメン’75」とか「ルパン三世」とかインストルメンタルのテーマに歌詞をつけることが流行ったことがあった。「犬神家の一族」の「愛のバラード」や「金曜ロードショー」の「Friday Night Fantasy」にも歌詞のついた歌がある。ずっと下って、平原綾香の「ジュピター」はホルストの「木星」に歌詞をつけている。こういうのはいっぱいあるよね。どうしても自分でも歌いたくなるんだろうと思う。スキャットだけだと、歌っているほうも飽きる。口をいろいろ動かすために言葉をつける。そのほうが歌っているほうも飽きない。聞く方も飽きない。飽きるとか飽きないとか、それが大事だって思うのはオレだけかな? まあ、オレは飽きやすいからね。

 ネットでもテレビでも新聞でもいいけどさ、歌詞が話題になることって結構多いんだよ。やっぱり、それだけ重要ってことじゃない? 歌詞のひとつひとつは短い言葉だけど、それが集積すると、やっぱりその中にはいいこと言ってるっていうのがあると思う。

 歌は短いから特にそうしやすいんだけど、最近はコンテンツがデータベース化されて、作品に古いも新しいもなくなった。ユーチューブでなんでも聞ける。尾崎が死んだあとに生まれた人も、もう26歳になっている。30年前に作られた尾崎の歌でも、今の歌を聞くのと同等に接している。尾崎を知らない人は新鮮な体験として尾崎を受容してるんじゃないかな。

 オレが生まれた頃に死んだ石原裕次郎っていう人は、5,60年代は映画、70年代はテレビで活躍した人で、オレの親父なんかはカッコいいって言っていたんだけど、ビデオで見てもオレにはピンとこなかった。もっと前ならジェームズ・ディーンとか、石原裕次郎より3歳上で50年代の人だけど、昔はいいって言われた人でも、今はもう古いなって思う。でも尾崎ってどうなんだろう。そういう感じはしないんじゃないかな。若い人で尾崎がいいっていう人は少なくないんだけど、古いものをひっぱりだして物珍しいから好きだっていう感じでもない。素直に好きなようだ。尾崎の歌詞には今の若いやつは共感しないとか言われてる。たしかに時代性を感じるものはあるけど、全部がそうじゃない。それに昔はそこがよかったんだからね。校舎の窓ガラスを割るっていう歌がある(「卒業」)。校内暴力が社会問題になっていた時の歌だけど、その時代に限定されない。欅坂46が「ガラスを割れ!」っていう歌を最近だして、明らかに尾崎的な挑発をしている。欅坂の歌は比喩でできている。同じように尾崎の歌も比喩として聞けば、今でも十分通用するものに思える。盗んだバイクの歌(「15の夜」)だってファンタジーとかが持っている比喩として読める。実際この歌は、「となりのトトロ」や宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」と同じことを歌っている。

 尾崎と石原裕次郎は何が違うかというと、裕次郎は映像の人だけど、尾崎は言葉の人だってこと。言葉の作品て意外に古びないんだよ。100年前の漱石だって普通に読めるでしょ。多少は難しい言葉があるけどね。千年前の『源氏物語』だって訳してもらえば理解できる。言葉からイメージされるものって自然に今あるものに置き換えちゃうからね。人間の心の動きなんて千年経っても変わらないしさ。だけど映像って何から何まで映っちゃうから、今との違いがはっきりわかってしまうんだ。

 さてと、能書きはこれくらいにして、次回から、もうちょっと具体的に尾崎についてしゃべってみよう。